昭和五十六年五月四日 朝の御理解


御理解第八節「子供の中に屑の子があればそれが可愛いのが親の心じゃ。無信心者ほど神は可愛い。信心しておかげを受けて呉れよ。」


 黙って居っても親と子が交流し合える心と心が交い合えれる。親が子を信じ子が親を信ずる。多くの言葉は要らない。心と心が交流し合うていく。そういう世界を神様は願って居られるのではなかろうか。
 神様と私共氏子との間に、あの氏子は大丈夫と親神様が安心して下さる氏子。もう目を離したらどんな事するか分からんと親がその言動に対して親がびくびくせんならんような親子もおります。家の子供はどこに放っておいても間違いはないと親に信じられる。私はこの御理解氏子信心しておかげを受けて呉れよというのは、そういうおかげ受けて呉れよという事だと思うですよね。
 ただ健康になって呉れよ、お金に不自由せんようになって呉れよとかそういう事じゃないと思う。親だから先ず、私共が神様を信じ神様がまた私共を信じて下さるような、しかもそこには黙って居っても交流する。黙って居ってもお互いが安心し合えておれれるような親子の中になりたい。
 もうそこからは親の物は子の物、子の物は親の物といったような神様の懐の中にまああってのおかげと言うか、神様の御物が自分の物、自分の物は神様の物といったようなね、おかげを頂く。そういうおかげの頂けれる道を教祖金光大神は信心と言っておられるのですよね。いつも申すように信心、お互いが神様を信ずる。神様も又私共を信じて下さる。
 それは私共がいよいよ信心になることだ。真心ですねいわゆる、になる事だと。信心する者は何事にも信心になれよという信心なんです。
 教祖がおっしゃるのは、ただ拝み拝めとか参って来いとかいうような事じゃない。そこから段々信心、神心いわゆる本当の神様との交流というのは私共の神心と神様の御心とがこう解け合う仲、一緒になる。そんな難しい、とても難しいように私共も感じておりましたし、まあお願いをしてお取り次ぎ頂いて万事に痛い痒いまで牛馬の事に至るまで実意を以て願えと仰せられるから、その実意の所を忘れてしもうてただどげなこつでん願うてよいというふうな頂きかたをしておったんです。
 成る程、牛馬の事に至るまでと、人事百搬ね願うてよいけれども、実意をもって願えとおっしゃる。その実意をもって願うという事がどういう事かのかというふうに極めてまいりますと、もう限りない私共の信心の進展の道は自ずとついてくるです。いわゆるシルクロードの道がついてくるです。
 険しいようでも柔らかく有り難く通って行けれる道が開けてくるんです。
 昨日は吉井の熊谷さん宅の恒例のまあお祭りで大変有り難いお祭りでございました。それで又私はあちらで皆さんに聞いて頂いた事でございますけれども、本当にこの実意のある人になりたい。実のある人、あの人は実があるとこう申しましょう。まあ云うなら実のある人、口ではむごう(上手にの意)いうけれども、心にそれとは反対の事であったり、反対の事を考えてまあお世辞のような事を平気でまあ言うてもきたし、又言う人が多いんです。例えばお宅の子供さんは可愛らしい、心ではどうした器量ん悪か子じゃろうかと思いながらそんな事を言う人がありましょうが。ありゃ実の無い言い方です。そりゃもう本当にもうとろりするような事をみな御信者の仲にもあるです。おだて上げる事の非常に上手な人があるです。そすと神様もですね、おだてられなさるです。ある意味でそしておかげ頂くですやっぱ。おだてられて、けどもそういうおかげは本当なおかげじゃないです。もうそれこそ手摺りごんぼと申しますが、それこそ神様の前には惜しかもんななかごたる、そのお供えやらもしてですね、云うなら手摺りごんぼするようにして拝む人があります。やっぱおかげは受けますけれども、ここで言われる氏子信心しておかげ受けて呉れよではないです。
 或る時、青年式を終えた青年がまだ三代金光様の御在世の頃、まあ一人前になったというのでお礼参拝ををした。これから大人の仲間入りをさせて頂きますが、金光様どういうような心掛けにならせて頂いたらよろしゅうございましょうかと言うてお伺いをした。そしたら金光様がね、「実意になられたら結構です。」とおっしゃったち。実のある人になれよとおっしゃったわけです。それで、金光様実意とはどういう事でございましょうかと又たたんでお伺いをしたげな。そしたら「我が儘と横着をせねば結構です。」とおっしゃられたそうです。
 私共の生活の中に我が儘、横着、まあよかよか主義が横着ですよね。どんなに口にむごう言うてもその我が儘と横着がある人は神様の御信用は受けられません。おかげは受けられましょうけれども、いわゆる信心をしておかげを受けて呉れよと言うお陰にはなって来ないです。言うならば神様が喜んで下さる、神様が安心して下さるようなおかげのはならん。それこそ黙っておっても神様と交流し合えるよう仲というものは生まれて来ないです。 これは私最近非常にあの言葉がなく、まあ私の側におられる方達が感じておられると思われる位にお話しが無くなったですね。こりゃ第一私と家内の場合なんか一日二人向き合うておっても別に何と話す事は無い。それでいて腹かき合うておるちゅう事でも何でもない。もう家内の心が分かり、私の心とが通じておるのですから朝起きて「おはようございます」なんて言うこつもいらん。もうそれ以上のものが交流しておる。
 私は或る先生の話を聞いたら、私が起きたら先ずお祖母さんに「おばあさん、おはようございます」それから私の朝が始まる。子供が又「親先生、お目出度うございます」「親先生、おはようございます」を言う。そこから家庭が非常に円満な円滑なおかげを頂いておる。それは成る程よかかもしれん。言うちゃならんこつじゃないけれども、今日はおはようございますも、言わじゃったでどうか腹けつだおらんじゃろうかというて心配せんならん。私はね、家庭の中というものは何を語らなくてもおめすを取らなくても機嫌をとり合わなくてもです、黙っておって交流し合える親と子であり兄弟であり夫婦でありたいと思うですね。それを最近本当に感ずるんです。
 最近はこの御理解も大変短くなったでしょう。以前はもう三十分間はもう充分毎日御理解でしたけど、今は五分か十分のような時がございます。こりゃまあ別として、段々御理解というのも短くなってくるんじゃないかいうふうに思います。それこそ三代金光様じゃないけれども、はいはいとおっしゃるだけ、お伺いをしたらそりゃ明瞭簡潔にね、はい実意になられたら結構ですとおっしゃるだけ。又お尋ねすると今のようにですね、答えを出して下さる場合もある。実意とは私共の心から我が儘と横着を引いたら残るものは実意だけとこういうのです。
 それに対して私は最近思う事は“実意とはもう黙って実行する事だ”無言実行という言葉が昔からあります。それを金光教では有言実行が本当だというふうに私も言いもし思いもしてきました。けどもより本当の事は無言実行のようですね。黙って居って自分の心の中にいつも喜びがある。その喜びは誰とでも交流する交わっていく。そして黙って居れる事の有り難さを此の頃は実感しております。そしてそれにまあ心にもない事をこう表現したり言うたりしよりますとね、その有り難さがなくなっていく事を体験しよります。消えますです。心にもない事を言うたりお世辞をすると自分の心の中にようやく有り難いと思わせて頂いておる心がなくなるです。こりゃ私共が信者時代に体験した事ですけれども、体験発表なんかさせてもろうて、それこそ大向こうから拍手喝采ちいうようなよい話が出来ましてもね。言うた後は寂しいものが何かあったです。それがなら自分以上のもの、自分の信心以上のものがやっぱり話しておるからじゃないかと思うです。お話しをしたら心が豊かに有り難くならにゃいかん、。いわゆる実のあるお話しじゃなからなきゃいけない。その実もです。云うなら黙って祈っておれれる、黙っておれれるという事。そこに云うなら黙って居っても神様と交流し合えるような信心を神様は願い求めてあるのではなかろうか。あの氏子は黙って居っても間違いはないと神様が信じて下さる。それを御神徳。そういう神様が氏子の上に安心をもって下さり喜びをもって下さる。そこに云うならば、神様と私との例えば間もです、黙って居っても交流し合えれる、いや黙っておく程心ん中に有り難いものが育っていくというようなね、信心を頂きたい。信心しておかげを受けて呉れよというのですから、先ず信ずる心を頂くことの為におかげを受けなきゃなりません。そして教えの全てが信心になれよであります。真心になれよという事です。
 実のある表現、実のある人に、氏子にお取り立て下さいという事を願わなきゃならん。それがいつの間にか信心、いわゆる神心ともなる頃には神様と黙って居っても交流するという世界が生まれてくるように思います。こりゃまだ私確かな答えが出ておるわけじゃないけれども、最近この黙って居る事のもう言うち聞かせたっちゃ同じこつ、というようなもので黙っておるのじゃなくてね、その黙っておれれる事のまあ素晴らしさというか有り難さというものを感じるが、そういう信心を信心しておかげを受けて呉れよとおっしゃるのじゃないかというふうに思います。
 皆さん例えばね、商売人に私が根っからの商売人ですから今さっきの話じゃないけれども、本当にまあ可愛らしくなかったっちゃ可愛らしかと言うて お客さんの関心をかうというような事はもう当たり前、商売人として当たり前のように思うておった。
 私はあの何時も感じるんですけれども、文男せんせいやらね久留米の支部長の佐田さんなんかは、話が上手な人ではありませんし、むしろ黙っとるなら黙っとる方が好きであるようなタイプなんです。それでいて商売が繁盛しよるでしょうが。〇〇さんなんかそりゃ口はむごう言うばってん商売が繁盛せん。あがしこ利口な人じゃけんその商売が繁盛するごたるけれども、そうじゃないです。黙って居ってもです。商品を売ってから有り難うございますとか、毎度有り難うございます。こりゃ別ですけれども、心にもないうその心までも言うてそのお客さんにサービスせんならんといったような商売人。だから合楽理念をもって商売は合楽理念をもってする以外にない。商売は合楽理念をもってと例えば云うならば、その中にね、今日私が申しますような事を一つ合楽理念をもってお商売をする事は、もう黙って良い品を安く売るという、私の方は安かとか高いとかそげなこつはいう事はいらん。黙っときゃよか。むしろ心から有り難うございますと、兎に角神様への奉仕をあのさせて頂く。
 私は佐田さんとか文男さんが商売の現場でどういうふうな商売をしとるか、そりゃ見た事がないから分からんけれども、どうもそんなに多く言葉は使っておられないように思うんです。兎に角お客さんが信用して下さる為に良い品を安く売るといったような生き方をなさっておるからこそ、ああしたどういう場合に合っても商売が繁盛していくんじゃないかと思うです。
 合楽理念に基づく商売は黙って売れれる商売人にならせて頂きたい。一つこりゃ商売人だけの事じゃないですから、皆さん体験をしてご覧なさい。もう言う事も語る事もいらん自分の心の中に有り難いものを持っておれば黙っておってその誰とでも交流出来るような、ここが言わんでよい所だな、あと黙って治めるとでもね、中身をですね、自分のこういうたら自分の有り難いものが抜けていくような気持ちでね、黙って有り難くなっていけれる手立てを一つ実験してみられるといいと思いますね。そこから必ず成る程言葉を多く言う事は要らんという体験が生まれてくると私は思います。
どうぞ